Entries

【追記版】苫米地氏の空観論とスピリチュアル

霊感の様なものは肯定しつつも、
スピリチュアルは危険思想でオカルトとして否定の論調でいる苫米地氏の意見について


空観・・・宇宙に絶対的なものはなにもない、全ては縁起によるものであるというものです。
     これは現実世界についても含めてのことです。
     私達が存在を認めている「現実世界」も別の視点から見ると違うものに見えます。
     例えば、映画のスクリーンやテレビのように、近づいてみると沢山の画素の投影にすぎない。
     つまり「現実」ではなく「幻」であるという見方で、これが空の見方です。
     徹底的な空観は、「幻」の世界の「幻」の人間を殺しても問題ない。
     この行き過ぎた空観の概念の仮定にはカルマの存在である。
     これは、今世の善悪によって、来世が決まるという考え方です。
     カルマが付きまとう徹底的な空観の世界では、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられる。
     これを回避するための方法論として今世でより苦しめば来世は救われるという思想まで行くのです。
     これはオウム真理教や江原啓之氏のスピリチュアリズムと概念的には同等です。
     つまり、麻原彰晃氏と江原啓之氏は前世が素晴らしかったから、それがアートマンとして伝えられ、
     今世は人よりもステージの高い人間なんだという発想になります。
     オウム真理教は古典仏教の徹底的な空観思想です。
     今世を苦しみ来世は救われる。オウム真理教では、それをポアと呼んでいたのです。


氏は、「魂に階層がある」という考えは「差別」であっていけないと言う
それが、スピリチュアルの危険性であるというのが苫米地氏の意見

つまり、前世の行為で今世の霊(人)を差別してはいけないという
前世のカルマが今世をに影響するという考えは、本人の力ではどうしようもない事なのだから、
それは、親が悪いからと、子供を差別していいはずが無いと言うのと同じで、
前世の行為で、今世の魂が階級により差別されていいはずが無いとの理屈である

以下、6月のシャンプー的私見であるが

①苫米地氏の言う「親と子」で考えるのは、
スピリチュアルのいう魂の生まれ変わりとは違うでしょ
だって、それは親子は別人だもの
親の精子と卵子の結合から生まれた子供でも
魂は親とは全く別の物
ましてや、自分の努力ではどうにもならないのは「宿命」
生まれや人種、性別等
だけど、前世も今世も来世も魂は「自我」
つまり自分自身
親のした事で子が差別される
というのと、
前世での自分の行為を、今世に生まれ変わった自分が「カルマ」として魂の差別を受けるのは
自分で自分の責任をとる行為というものであって、他人のした事を背負わされると言う事ではない
そして、それらは「宿命」ではなく、今世の行いで変えられる「運命」であるということ
そこのところを、苫米地氏は混同しているが故に、スピリチュアルそのものを否定しているというのが①つ


②私はオウム真理教の教義も、インド仏教もチベット仏教も日本の仏教も全くと言う程知識は無いが、
氏の言う「空の観念」が、現実世界も「幻」つまり、マトリックスの世界であると言うのなら
映画のマトリックスの如く、想像や発想で物を作りだしたり、消したり出来るという
人を殺しても、それは幻だから「良い」という発想なのだが
それは、映画と同じ「物質」論、唯物論主義の発想ではないかと
瀬戸内寂聴が、精神的に罪を犯した事で仏門に入ったと何かで語っていた
現実的に罪を犯したのではなく、心の中で(頭の中で)そう考えたことに罪の意識をもつという
究極のプラトニック懺悔(その罪とは、浮気だったと記憶する)
それを言うなら、和田アキコは、日記の中で何百人も殺してきたと豪語していたことから、
虐殺レベルの罪になるw
現実的には罪ではないが、精神的な罪という存在を説明しようとしたならば、
それは、数学的概念では正にマトリックス(幻)だろう
だから、現実の世界において、出家したり出頭しなければならないと言う現実的行為の必要性は全くないが、
では何故、幻の空観を突き詰めれば、幻だから人を殺してもイイという考えと
それすらも、罪と認識するものとがあるのだろうか

それを愛情と置き換えて考えてみたら、分かりやすいのではないかと
親が離れて暮らす(同居でも同じだが)我が子の健康、生活、将来について
毎日心配していても、それを言葉で発したり、物を与えたりして、物質的な行動で表さなくても、
親の愛情、つまり関心を寄せる気持の存在を否定できるか?ということ
現実に「仕送り」といった金銭や品物が存在しない幻なのだから、
その親の子に対する愛情や想い否定する根拠になるだろうか?と

もっと言えば、神々を蔑にする小和田と雅子と徳仁のやってること
見えもしない分かりもしない神への祭祀など、意味のない事と蔑にして
司祭で有りながら、祭祀をせず、そのくせ、異教の呪いを「厄払い」に利用する東宮夫妻
苫米地氏の理屈で言うなら、これこそ幻行為の祭祀を怠った所で、
幻なのだから祭祀などやらんでいいという理屈になる
それならば、東宮夫妻の自堕落を、堂々と空観の理屈で祭祀を拒否していると言えるかもしれない、


③前世が素晴らしかったかどうかは、自分で語ることが出来るのか?ということ
例えば、有史以前の行為を、現代的社会を基準とした事後法で捌く思想と同じで、
マンモスを狩りで殺して食べていた時代に
自分は狩りをしていないので、与えられた肉を食べても殺生の罪は犯していない
だから、素晴らしい行い(善行)をした前世だと捉えるか、そう言う事だと思う

麻原の前世が善行だったのかは知らんが、今世は最悪だろうと言う事は分かるわけで
魂のステージは階層的に「高い位置」で始まったのだとしても、
今世で最下位に落としているということ
つまり、怠けた分、魂の成績は下がるということではないだろうか
そして、来世では、低いステージで始まるか、あの世でも修行を積まなくてはならないか
そこは分からないけど、苫米地氏の「人より高い」というのは、どの人と?という感覚で語っているのか?
現世にいる「人」より高い位置に自分の魂が有るのではなく、
自身の魂があの世の階層で高い位置「高級霊」であるという「魂の年齢」がスピリチュアルの考えであり、
麻原自身が唱える自我は、例え、万物全部より崇高で、イエスキリストの様な最高級霊だとしても、
今世で最下位だから、結局、自分で責任をとる自分の行為であるといえるだろう
動物的な魂には、低級霊がイエスだブッダだと名乗って「嘘」「堕落」「犯罪」等を吹き込むという
オウムのポアの理屈はただのド屁理屈そのもので、
自分達にとって都合の悪い人や信者を殺す言い訳にしただけのもの
苦しめば来世で救われるのだから、殺してやってるという身勝手な屁理屈でしか無い

オウムの唱える「善行」は、オウムの屁理屈でしかないとしたら
では、善行であるという定義は、一体、どうやって誰が何を基準に決めると言うのだろう?
私は○○な良い行いをしました!と主張する人がいたとして
いや、あなたの○○は××にとっては悪行であるあから、あなたは善い行いをしたとはいえない
とした場合、
果たして、それは善行なのか悪行なのか、はたまたどちらでもないどうでもいい事なのか
一体誰がどうやって決めるのだろう?
閻魔大王か?大天使ミカエルか?シャーマンか?ブッダか?キリストか?
マンモスの狩りと同じように、誰がどの時点で善悪を決めるか、決められるものなのか?という疑問

仏教でいう善行は徳を積み、悪行は不徳となる
まるでお買い物やゲームのポイント制の様な徳の概念ではないか
このお店で幾ら以上買えば1ポイントという定義は、
この世で「何をしたら」善行になり、「徳」のポイントを付加して貰えるのか?という

この何をしたらの部分が、時代や環境によって大きく違ってくる

地球外生物エイリアンが飛来し怪我をして弱っていた
それを発見した人間が、可哀想だと介抱して助けた所
元気になったエイリアンは、子孫を残す為、早速、解放した人間、近くの住人に寄生し食いつくし
最終的には増えた子孫らとともに、全人類に寄生して食いつくし絶滅させたとしたら
この介抱した人間の行為は、善なのか悪なのか?
これと同じ事が植民地時代にもあっただろう
植民地支配に来たスペインやポルトガル人を
助けたり接待して歓迎したら、あっという間に侵略され殺されたとか

中国人の死生観と日本人の死生観
朝鮮人の道徳観と日本人の道徳観

大きく違うこれらで
誰にとっての「善」なのか、
誰にとっての「悪」なのか
誰がどうやって決めるのだろう?

善悪の判断もそうだし、
そもそも、今世の苦しみというのは、「その苦しみに耐え乗り越え向上した努力」を言うのであって、
より「痛い苦しい辛い死に方をしたことがより救われる」という概念は、
江原氏はどうかわからないが、スピリチュアル的には無いと私は思っている
その理屈ほどオウムのような危険な宗教が利用しやすい絶好の餌になる
原爆の火傷で苦しみながら死んでいった人と、瞬時に蒸発した人では救われ方が違うとか、
即死の人、経済的な理由で家族の為に安楽死を選択した人は救われず、
滅多刺しにされたら救われるというのもオカシナ話ではないだろうか?
大津の事件で考えれば、主犯格の3人とそれに関わった教師や警察は、、
日々の暴行や強要や嫌がらせを残酷にやればやる程、被害者の男子生徒はあの世で救われるのだから、
被害者の為にやってあげた「善行」なのかということになってしまうだろう
正にオウムのポアの発想そのものの解釈だ
想像を絶する苦しみと絶望の中でも、被害者少年は家族を想い、家族の為に一身に残酷なる暴行を受け続け死んだ(殺された)、この少年の優しさや家族への想いは「幻」であるのか?
そして、残忍な殺され方により彼は救われたのか?
・・・・・・違うだろう?誰が考えたって違うだろう?
彼が救われる方法はただ一つ、苦しんでいた地獄の日々とは何だったのか?
それは、周囲の無関心である
愛の対極にあるのは、無関心だ
相談した教師に誤魔化され無視され見て見ぬふりをされた、
周囲にどれだけの他の生徒の父兄が居ても、目の前で行われている少年への暴行を誰も止めなかった
父親は心配しる、祖母も姉も心配する、それを少年は想いやって本当の事を言えなかった、言わなかった優しさ
彼に死により、大津の、学校の、市教委の、警察の、市議の、県議の癒着が暴かれ、
国民全部がこの事件に関心の目を向けることで、今も不当に暴行を受け苦しんでいる子や、これからも出てくるかもしれない被害者が助けられる事、そして、息子を助けられなかったという父親の無念が晴れること、そして、自身への不当な行為が暴かれる事で初めて「苦しんで死んだ事から救われて、晴れて成仏出来る」のではないかと私は強く思う

故に、仏教ではどの様な解釈が正しいのか知らないが、苫米地氏の言う
「ナイフをタダ刺すより、ぐりぐり回してもっと痛みで苦しめて殺した方が、あの世で本人は救われる」
という解釈であるのは、
スピリチュアルでは違うと私は確信する

ブルースウィルス主演の映画「シックスセンス」でも、不成仏霊達が自身の苦しみを訴えて、霊感の強い少年に助けを求めてくると言う話。
つまり、彼らは生きている間、苦しんでいたから救われるのではなく、苦しみの念から解き放たれていないから成仏出来ずに死後も苦しみ続けているというもの
そこで、霊感の強い少年は、霊達の話を聞いてやり、その無念の想いを解いてやる行為に出た
以前にも書いたが、母親に洗剤を毒物代わりに盛られて殺された少女の無念を聞いてやり、少女の父親に母親の犯行現場が一部始終映ったビデオテープを渡し、次に殺されるはずだった妹の命を救ったというもの

また、江原氏の「天国からの手紙」で、苦しみが死後にやってきた霊の話が有った
子連れで再婚した女性が幸せもつかの間、癌で間もなく死亡、連れ子の少女を再婚相手の男性が引き取った
ところが、死んだ母親が江原氏に「助けてくれ」と訴えてきた
少女は新しい父親が嫌いだった、母をとった男と言うの有るし、馴染むことが出来なかった、
そんな人と二人きりの生活は、苦しくて辛くて遂には泣き出してしまった
結果、江原氏が死んだ母親の訴えから、少女を母親方の親兄弟が引き取る事で決着した
というもの、だとしたら、苫米地氏の理屈では、これは、死んだ母親も幻だし、死後の世界も幻なら「無視して聞かなくてもイイ」ということになる
だが、少女の苦しみ解決された事で、母親の霊も死後の苦しみから解放されたというもの

そう考えると、苫米地氏の解釈の大元が
仏教では宇宙全体も全てこの世である物質世界の中でのことを空観といて解いており
存在しないスピリチュアルでいう物質世界ではないあの世(精神界)の存在をも
物質界の宇宙として捉えているのだから、その中で有る無しを決めようとすると空観の理屈では
幻=現実には無いものとして捉えていると思える

これを苫米地氏の例えである
親のしたことで、子が差別されるのは不当だから、
スピリチュアルの魂の階層はあってはいけないという主張は、

親と子は精子と卵子の細胞の結合から生まれた肉体の地続きが有るが、
スピリチュアルの世界から宿った魂という自我は、親子でも別物
つまり、
あの世とこの世は地続きで精神である魂の域気はあっても、
物質界のこの世での肉体は精神とは別物なので肉体は行き来出来ない別世界の物

という理論で論破できると思う
苫米地氏は魂と言う自我の精神と肉体と言う物質の現実性を混同していると言える
その混同した定義で説いた空観だから、スピリチュアルと相いれなくなると


これが、苫米地氏の空観に対する素人の私の私見

そして、仮観と中観については次回エントリーにて
解説~チベット仏教の教えより

[4]空と縁起とは


『空』と『縁起』は仏教の根本にある思想と言ってよいだろう。『空』とは実体が無いということ。自分が思い込んでいるようには世の中は存在しないということだ。『縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである。原因や条件、または部分などに互いに異存することによって全てのものは成り立っている。この二つの思想は深い意味を持つ。この関係を理解すれば全ての悪しき見解から離れ、苦しみから解放されると仏は説いた。


 まずは『縁起』から説明しよう。『縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである。原因や条件、または部分によって全てのものは成り立っている。このことを深く考えることはとても大事なことだ。ダライラマ法王もよく『仏教徒は縁起を通して物を見よ。そして非暴力に徹せ』とおっしゃっている。幸せは幸せの原因より生じる、苦しみは苦しみの原因から生じる。幸せになりたいならば、幸せの原因を作らねばならない。苦しみたくなければ、苦しみの原因をさけねばならない。幸せは徳(善行)を原因とし、苦しみは不徳(悪行)を原因とする。徳も不徳もまわりの人たちとの関係の中で作られる。もしも幸せになりたければ、自分のまわりの人々を幸せにしようと努力するべきであって、決して傷つけてはならない。故に非暴力なのだ。もし今、あなたが苦しみを感じているならば、それは誰かを傷つけた結果であり、もし幸せを感じているならば、それは誰かを幸せにした結果なのである。
 

 どんなことが、まわりに迷惑を掛け、傷つける結果をもたらすのか。仏教ではその一つのガイドラインとして十善戒というのをもうけている。すなわち(一)不殺生、(二)不偸盗、(三)不邪婬、(四)不妄語、(五)不悪口、(六)不両舌、(七)不綺語、(八)無貪、(九)無瞋、(十)正見である。つまり、殺さない、盗まない、姦淫しない、嘘を言わない、暴言を言わない、二枚舌を使わない、戯れ言をいわない、貪らない、怒らない、邪見にふけらない。これらを常に心において、自分の行動と照らし合わせてみよう。苦しいとき、楽しくないとき、自分がこの中の何を守れなかったのか考えてみよう。相手を責めるのは間違いだ。原因は自分の行動や考え方にある。


 次に『空』を説明しよう。全てが何かによって生じている『縁起』なる世界においては、固定的な実体(自性)は存在しない。その時その時の原因と条件によってたまたまそう見えているだけである。それが証拠に変わらないものはない。人はまわりにいる人によって規定され、場によって変わる。それを『あの人はこうだ』と決めつける。いろんな原因と様々な条件、特にその時の感情のせいで『偶然に』そう見えただけなのに、人は自分がそう見えたことが本当にそうあったと思い込むくせがある。


 私たちは皆『私』というイメージを持っている。『私』とはその時その時の条件、場、見方によって自分の心にイメージとして生じているだけであり、実体的な『私』などは存在しないということだ。私たちはみな、物心ついたときから大事に大事に『私』というイメージを守ってきて、それを中心にして生活したり、物事を判断していたりする。


 『私』がその時その時の条件で心に現れるにすぎない心象である以上、それを中心に生活すれば、現実とはそぐわないわけだから、人は苦しみからは逃れられない。だからこそ、周りの人の幸せ、都合、利益を中心にした生活に変わらねばならないのだ。その生活だけが自分に幸せをもたらすと知り、今までの自己中心的な生活、行い、考え方を止め、意固地にならず、他の考え方を柔軟に受け入れられる考え方をした方がいい。仏教の聖人でのないかぎり、自分に見えているものは、大きく現実からかけ離れているのだから。

関連記事

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://maruga935.blog8.fc2.com/tb.php/1520-644857d3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

プロフィール

まるが@

Author:まるが@
娘が二人います
80年代に青春時代を過ごしました
性格は気まぐれです
系統は保守系で真ん中よりちょっと左かもです
どっちかっていうと嵐の事を、母ちゃん目線で見ています
嵐の映像と曲を聞かない日はないくらい嵐漬けな毎日です

★略歴★

2006年に嵐の大野智に落ちました
2007年TIMEで初コン参戦
2008年アライブコン参戦
2009年5×10コン参戦
2010年体調崩しコン不参加

★色々★
ネットを徘徊して殆どの嵐動画を見ました新参の部類です
大野智のソロコン2月の直後に落ちたのを悔いています
もう一か月早く落ちていれば、チケットとれなくてもグッズは買いに行ったのにと

★好きなジャニ★
尊敬するジャニーズ→中居君
成長に期待するジャニ→山田&知念

★嫌いな生き物★
アグネス金子陳美麗
キムヨナ
昆虫
民主党旧社会党社民党公明党
創価学会等新興宗教系

★ブログテーマソング★

「頭に乗せてる葉っぱが落ちた。逃げ込むはずのお山も消えた。川の流れも海の波間もみんなどっかへ消えてった。最後に残った可愛い人形。飾るお部屋が見当たらない。べべ着て帰ろう。べべ着て帰ろう。鼻緒が切れてもべべ着て帰ろう。」~2020年まで

最新記事

最新トラックバック

FC2カウンター

FC2拍手記事別ランキング

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード